約 97,224 件
https://w.atwiki.jp/ishigamism_wiki/pages/150.html
作者:吉川英治 初版:2000年X月X日 感想:劉備、隴を得て蜀を望む!勢いを取り戻す曹操!そして孫権は・・! 【1回目】 期間:2010年4月4日(日)~4月12日 日数: 三国志 吉川英治 歴史
https://w.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/608.html
[部分編集] 古くないけどいにしえ武将・超級 http //www.nicovideo.jp/watch/sm6108043 使用ゲーム 三國志11PK シナリオ・担当勢力 英雄集結・新君主(秦良玉) シナリオの設定 超級、登場仮想、戦死普通 動画形態 純プレイ動画 登録武将 いにしえ武将のみ 史実武将の扱い 制限あり 投稿時期 2009年02月10日~ 投稿者名 lio_dda マイリスト マイリスト 関連タグ - 関連サイト - 備考 週5~6回更新 簡単な解説 超級・秦良玉君主・永安開始でのプレイ動画。 いにしえ武将以外の登用・軍事に関して縛り。妖術・落雷はシステムで禁止。 動画を一気に追いかけるのが大変、という場合は、「プレイn日目」単位で追いかけるのがオススメ。 但し5日目は長いので注意。 更新は原則、週最後の平日を除く平日深夜と、休日昼間の週6回です。 以上マイリスト解説より。 基本ノーカット(早送り)の純プレイ動画。 上述の通り「いにしえ武将」縛り。時代的には三国志の未来からやってきた武将も多いが気にしない。 うp主による字幕解説・ツッコミも丁寧な作品。 うp主はランキングへの場面指定を行っているのだが、 どうも秦良玉の部隊が敵にやれらているシーンが目立つ気がする。……ふぅ。 紙芝居などがなくとも秦良玉のがんばりが好きになる、純プレイのきわめて健全な動画ですとも。 縛り 000より 出陣制限 いにしえ武将以外の「攻略戦」への出陣の禁止 自領内への施設建設時には出陣可能 防衛戦への出陣はあり(なるべく自重) 輸送制限 いにしえ武将以外で、計略系特技もちの武将の攻略戦への輸送随伴禁止 (諸葛亮等を輸送で随伴させて計略かけさせたりはNG) 登用制限 いにしえ武将以外の「登用」禁止 (登用イベント、仕官は可) 他勢力所属、身分一般の武将の「登用」禁止 (いにしえ武将でも登用は在野か捕虜からのみ) 外交制限 「同盟」「停戦協定」の提案の禁止 (他勢力からの受諾は可能) Mではないのできびしくはしないとのこと [部分編集] 武将紹介 秦良玉(1574~1648) 統82 武78 知76 政70 魅90 槍B 戟A 弩A 騎S 兵C 水B 特技 強行 本動画の君主。中国史上、正史に伝の残る唯一の女性武将である。史実では各地を転戦して反乱を鎮圧し、斜陽の明を最後まで支えた。 そんな彼女でも、南北朝時代から明代までのオールスターが揃う自軍をまとめるのは難しいようで、君主自ら常に矢面に立って馬上で槍を振るい、将兵に範を示している。 だが、呑気な漢どもは、彼女が奮戦する姿を見てある欲望を満たしているにすぎないのであった。 コメント欄 編集者さん乙です -- 名無しさん (2009-04-25 14 45 09) とりあえず秦良玉の紹介文だけ作ってみました。 -- 名無しさん (2009-07-10 16 45 08) 一気に見ようとしたら丸一日潰れました。 -- 劉度ヲチャー (2012-05-09 18 32 27) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/sanngoku/pages/16.html
戦紹介 黄巾の乱 汜水関の戦い 除州制圧戦 下ヒの戦い 江東・呉の戦い 官渡の戦い 長坂坡の戦い 赤壁の戦い 潼関の戦い(関中制圧戦) 成都制圧戦 漢中争奪戦 荊州争奪戦 夷陵の戦い 南中平定戦 街亭の戦い 諸葛亮北伐 魏対呉蜀連合戦 姜維北伐 魏呉対戦 祁山侵攻戦 姜維・孫峻北伐 蜀侵攻戦 旧蜀侵攻戦 鍾会・姜維クーデター 呉晋戦争 呉普西陵大戦 広州 郭馬の反乱 三国志終焉呉滅亡
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/16.html
<魏 240年> <蜀漢 240年> <呉 240年> 240年 正始元年 (魏) 皇帝 曹芳(魏齊王・字蘭卿) 皇后 (空位) 三公 太傅:司馬懿(前太尉) 太尉:滿寵(前征東將軍) 司徒:衛臻(前司空) 司空:崔林(前司隸校尉) 九卿 衛尉: その他の要職 大将軍:曹爽(前武衛將軍) 驃騎大將軍:→ 車騎將軍:黃権(前鎮南將軍)→(死亡) 地方官 荊州刺史:胡質 幽州刺史:母*丘儉 雍州刺史:郭淮 主な事件 正始元年春二月乙丑、侍中中書監の劉放を左光祿大夫に、侍中中書令の孫資に右光祿大夫を加える《三国志魏書三少帝紀》 二月丙戌、遼東の汶、北豐の県民が海を渡って流れ着き、齊郡の西安、臨菑、昌國の県境に居を定める。新汶、南豐県と改め、流民を居住させる《三国志魏書三少帝紀》 前の年の冬十二月から元年二月に至るまで雨が降らず《三国志魏書三少帝紀》 二月丙寅、詔して獄官に令して審理させて軽微罰のものを出せ。公卿士人による的を得た言、謀を受け入れるだろう《三国志魏書三少帝紀》 夏四月、車騎將軍黃權が薨ず《三国志魏書三少帝紀》 秋七月、詔に曰わく「現在百姓は不足があるのに御府は多くの金銀雜物を作っている。今黃金銀物百五十種・千八百余斤を出し、銷冶して軍用に供する」《三国志魏書三少帝紀》 八月、秋の収穫に合わせ車駕は洛陽の周辺を巡り、高年齢のもの、力田のものに各々格差をもって下賜した。 魏の王凌*は征東将軍・仮節都督揚州諸軍事に任じられた《三国志魏書王凌*伝》 誕生者 死没者 黄権:車騎將軍
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/156.html
<魏 254年> <蜀漢 254年> <呉 254年> 254年 嘉平六年→正元元年(魏) 皇帝 曹芳(魏斉王)→曹髦(魏高貴鄉公) 皇后 張氏→(廃位)→王氏→(廃位) 皇太子 三公 太傅:(空位) 太尉:司馬孚(前司空) 司徒:高柔(前司空) 司空:鄭沖(前光祿勳) 九卿 録尚書事:司馬師(大将軍) 光祿勳: その他の要職 大将軍:司馬師(前撫軍大將軍) 車騎將軍:郭淮(前征西將軍) 驃騎將軍:? 衛将軍: 地方官 雍州刺史:陳泰 主な事件 六年春二月己丑、鎮東將軍の母*丘儉は、諸葛恪が合肥新城を囲んだ折、城中の士の劉整、鄭像に功があったと上言した。詔して追って劉整、鄭像に關中侯の爵を賜い、各士の名を刻み、子に爵を継がせよ。《三国志魏書三少帝紀》 二月庚戌、中書令の李豐は皇后の父で光祿大夫の張緝等と謀り、大臣を廢易して、太常の夏侯玄を大將軍と為さんとする。事は発覚し、諸所で関連したもの皆誅に伏す《三国志魏書三少帝紀》 二月辛亥、大赦《三国志魏書三少帝紀》 三月、皇后の張氏を廃す《三国志魏書三少帝紀》 夏四月、皇后に王氏を立てる。大赦。《三国志魏書三少帝紀》 五月、皇后の父である奉車都尉の王夔を廣明鄉侯に封じ、光祿大夫、特進の位を授ける。妻の田氏は宣陽鄉君と為す《三国志魏書三少帝紀》 秋九月、大將軍の司馬師は廢帝を謀り、皇太后に相談する《三国志魏書三少帝紀》 九月甲戌、太后は令に曰わく、「皇帝の芳は年が長じても萬機に親しまず、耽淫內寵・沈漫女德・日延倡優・縱其醜謔である。天意に適わない。宗廟に奉って、太尉の高柔に兼ねさせて策を奉じ、宗廟に告げ、芳を齊国に歸藩させ、皇位を譲らせる」即日別宮に移る。年は二十三。使者は節を持って送る。齊王宮を河內の重門に営み、制度は皆藩國の禮に準じた。《三国志魏書三少帝紀》 九月丁丑、令して曰わく「東海王曹霖は、高祖文皇帝の子である。高貴鄉公の曹髦は大成之量あり、明皇帝の跡継ぎと為す《三国志魏書三少帝紀》司馬師はまた永寧宮に、「大宗は跡継ぎが無く、分家の中から賢者を選ぶべきです。東海定王の子である高貴鄉公は文皇帝の孫で正統なる血統であり、烈祖明皇帝の後を継ぐに問題ありません。臣は公を洛陽宮に徵することを望みます」と奏上し、可とされた。中護軍の司馬望、兼太常で河南尹の肅は節を持ち、少府の褒、尚書の亮、侍中の表等と法駕を奉じて、公を元城に迎えに行った。《三国志魏書三少帝紀に引く魏書》晉の受禪後、齊王を封じて邵陵縣公と為し、年四十三、泰始十年に薨ず。厲公と諡する《三国志魏書三少帝紀に引く魏世譜》 十月己丑、曹髦は玄武館に至り、臣下は舍前殿にお出ましになるのを請うた。曹髦は先帝がいた所として避けて西廂に止まる。臣下は又法駕をもって迎えることを請うたが聽かず。《三国志魏書三少帝紀》 庚寅、曹髦は洛陽に入る。臣下は西掖門の南で拝し迎える。曹髦は輿を降りて答拜した。儐者が「儀礼によれば拝礼しないものです」と言った所、公は「私は人臣です」と答え、拝礼した。止車門で輿を降りると左右の者が「輿に乗ったままお入りください」というと、公は「私は皇太后様に徵されただけでまだどうなるか分からないのだ」と答えた。步いて太極東堂に至り、太后に会った。即日皇帝に即位し太極前殿に現れた。百僚陪位者が迎えた。詔して曰わく「昔、三祖は神のような武と聖德によって天命に応じて禅譲を受け、齊王が皇位を嗣いだ。だが行いを律することができず、皇太后は社稷の重責を憚り、宰輔の謀を受け入れ、皇位を替えるに至った。私は大命を一身に受け、身も細る思いだ。祖宗の大訓を守り継ぐことができるか畏れる。今公卿士は股肱として輔佐し、四方征鎮はその力を発揮し、皆德を積み功を挙げよ。帝室に忠勤たれ。先祖先父以来の有德之臣よ、左右にある者よ、皇家を守れよ」大赦。改元する。乘る輿、服御、後宮の用度を減じる。また尚方御府百工を罷めさせ、技巧靡麗や無益の物は無くした。《三国志魏書三少帝紀》 正元元年冬十月壬辰、侍中に節を持たせて四方に分けて遣わし、風俗を観、士民を労り、職の無い者を調べさせた《三国志魏書三少帝紀》 癸巳、大將軍の司馬師に黃鉞を与え、入朝不趨、奏事不名、劍履上殿の権限を与えた。《三国志魏書三少帝紀》 戊戌、黃龍が鄴の井戸の中に見られた《三国志魏書三少帝紀》 甲辰、有司に命じて今回の廢立において定策之功を論じさせ、封爵、增邑、進位を行った。各々格差があった《三国志魏書三少帝紀》 誕生者 死没者
https://w.atwiki.jp/ishigamism_wiki/pages/151.html
作者:吉川英治 初版:2000年X月X日 感想:劉備、関羽そして張飛死す・・!次々に起こる訃報の知らせに孔明は南蛮へ往く。 【1回目】 期間:2010年4月12日(日)~18日(日) 日数: 三国志 吉川英治 歴史
https://w.atwiki.jp/ishigamism_wiki/pages/147.html
作者:吉川英治 初版:2000年X月X日 感想:裏切り続きの呂布、最後の時を迎える・・! 【1回目】 期間:2010年2月27日(土)~3月7日(日) 日数: 三国志 吉川英治 歴史
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/9.html
<魏 265年> <呉 265年>? 265年 咸煕二年(魏) 皇帝 曹奐(字景明・魏常道鄉公) 皇后 卞氏 皇太子 三公(魏) 晉王:司馬昭(相國)→(死去)→司馬炎 相國:司馬昭(晉王)→(死去)→司馬炎 太傅:司馬孚(前太尉) 太保:鄭沖(前司徒) 太尉:王祥(前司空) 司徒:何曾(前征北將軍)→司馬望(前驃騎將軍) 司空:荀顗(前尚書左僕射) その他の要職(魏) 錄尚書事:司馬昭(大将軍)→(死去) 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大将軍:司馬昭(大都督を加号)→(死去) 驃騎将軍:司馬望(前衛將軍)→石苞(前征東大將軍) 車騎将軍:→陳騫(前征南大將軍) 衛将軍: 地方官 司隸校尉: 冀州牧: 幽州牧: 并州牧: 青州牧: 徐州牧: 兌*州牧: 揚州刺史:? 雍州刺史:諸葛緒 交州牧:孫壹? 梁州: 主な事件 二年春二月甲辰、朐ジン縣が靈龜を捕獲し献上してきた。相國府に納め返した。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 二月庚戌、虎賁の張脩は昔成都にあって馬を馳せて諸營を回り鍾會の反逆を知らせた。身を没するに至る。脩の弟の倚に爵を賜い關內侯と為す。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 夏四月、南深澤縣で甘露が降ったと知らせてきた。 夏四月、吳は使者として紀陟・弘璆を遣わして和を請うてきた《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 五月、詔して曰く「相國晉王は神慮を働かせて光は四海を覆っている。江表を慰撫し武を抑えて仁を高め、威德を示した。文告を加えた所、使者を遣わして貢物を送ってきた。しかしながら王は謙讓の意をおもって皆簿記して送ってきたが、意思に添うことにはならないだろう。孫皓が献上してきた諸所は皆送還し王のもとに返せ。もって古義にならえ。」王は固辭して沙汰止みとなった。また、晉王に命じて十二旒と天子の旌旗を建てること、出警入蹕、乘金根車、六馬、五時副車を備え、旄頭雲罕を置き、樂舞八佾、虡宮に縣ける鐘を設けることを許可する。王妃を進めて王后と為し、世子を太子、王子、王女、王孫、爵を旧例にならうよう命じた。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 癸未、大赦。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 秋八月辛卯、相國晉王が薨じた《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》八月辛卯、文帝が崩御し、太子の司馬炎が相國・晉王を継ぐ。令を下して宥罪の刑を和らげた。役務を休め、國內で三日の服喪を行った。《晋書帝紀三武帝》 八月壬辰、晉の太子の司馬炎が襲位し、百揆を総攬した。物品典冊を備え、すべて皆前と同じであった。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 是月、襄武縣が大人が現れたと報告してきた。身の丈三丈餘、跡は長さ三尺二寸。白髮で黃色の單衣、黃巾、杖を柱にして、民王を呼んで語って云うには「今に太平が来る」と。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 九月乙未、大赦。。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 九月戊午、司徒の何曾が晉の丞相となる。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》九月戊午、魏の司徒の何曾を丞相、鎮南將軍の王沈を御史大夫、中護軍の賈充を衛將軍、議郎の裴秀を尚書令・光祿大夫と為し、皆開府する《晋書帝紀三武帝》 九月癸亥、驃騎將軍の司馬望を司徒に、征東大將軍の石苞を驃騎將軍に、征南大將軍の陳騫を車騎將軍と為す。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 九月乙亥、晉の文王を葬送する。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 閏月庚辰、康居・大宛が名馬を献上してきた。相國府に納め直す。遠方より萬國が懐かしんできたことを顕かにした。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 十二月壬戌、天祿は永遠に去り曆數は晉に移った。詔して公卿士は儀礼を整え壇を南郊に設ける。使者を遣わして皇帝に璽綬と冊を奉じ、晉の嗣王に禪位した。漢魏の故事にならった。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 十二月甲子、使者を遣わして策を奉じ、遂に金墉城に移った。その後鄴に館を設けた。時に年二十。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》 誕生者 死没者 ▲PAGE TOP
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/47.html
196年 建安元年(漢) 皇帝 劉協(漢献帝) 皇后 伏寿(琅邪郡東武県・父の伏完は不其侯、桓帝の娘陽安公主を娶る) 皇太子 (空位) 三公 太傅:空席 太尉:楊彪(前太常・194~196)→(空位) 司徒:趙温(前衛尉・194~208) 司空:張喜(前衛尉・193~196)→曹操(196~209) その他の要職 録尚書事: ■楊彪(太尉・194~196) →(空位) ■曹操(司隸校尉・196~) 太常:? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大司馬:張楊(前安国将軍・196~198) 大将軍:?→韓暹(196~)/曹操(196)→袁紹(196~197) 驃騎将軍:張済(195~196)→(死亡)→(空位) 車騎将軍:郭汜(自称・195~197)→楊奉(196~) 行車騎将軍:曹操(196~) 衛将軍:董承 地方官 司隸校尉:?→曹操(鎮東将軍・196~) 豫州刺史:郭貢? 河南尹:駱業? 徐州牧:劉備(196) 《三国志蜀書先主伝》 冀州牧:袁紹(191~202) 兗州牧:曹操?(前東郡太守) 荊州牧:劉表(192~208) 主な事件 建安元年春正月癸酉、安邑に於いて上帝に郊祀を祭り、天下に大赦する。建安と改元。《後漢書孝献帝紀》 建安元年春正月、曹操の軍は武平に臨み、袁術が置いた陳相の袁嗣は降伏する。《三国志魏書武帝紀操》 曹操は天子を迎えようと考えたが諸將のある者は疑いを持った。荀彧、程昱は之を勧めた。曹洪を遣わして西迎させたが、將軍の董承と袁術の將である萇奴が強く拒み、曹洪は進むことができなかった。《三国志魏書武帝紀操》 二月、韓暹が衛将軍(?)の董承を攻める。《後漢書孝献帝紀》 二月、曹操は進軍して汝南﹑潁川黃巾の何儀、劉辟、黃邵、何曼等を討ち破る。彼等は各々数万の軍を為し、初めは袁術に呼応し、また後に孫堅に付く。辟、邵等を斬り、儀及其衆は皆降伏した。天子は曹操を建德將軍と為す《三国志魏書武帝紀操》 夏六月乙未、聞喜に御幸する。《後漢書孝献帝紀》 夏六月、曹操は鎮東將軍となり、費亭侯に封じられ、祖父の爵位を継ぐ。《三国志魏書武帝紀操》 秋七月甲子、車駕は洛陽に至る。故中常侍趙忠の邸に入る。《後漢書孝献帝紀》天子は初め洛陽に至ると、城の西の故中常侍の趙忠宅に御幸する。張楊に宮室を繕治させ、名づけて揚安殿という。八月、帝は遷居する。《三国志魏書武帝紀操に引く獻帝春秋》 秋七月、楊奉、韓暹は天子を守って洛陽に還る。楊奉は別れて梁に駐屯する。曹操は遂に洛陽に至り、韓暹は遁走した。《三国志魏書武帝紀操》 七月丁丑、上帝に郊祀を祭り、天下に大赦する。《後漢書孝献帝紀》 七月己卯、太廟に謁した。《後漢書孝献帝紀》 八月辛丑、南宮の楊安殿に入った。《後漢書孝献帝紀》 八月癸卯,安国将軍張楊を大司馬,韓暹を大将軍,楊奉を車騎将軍と為した。《後漢書孝献帝紀》このとき、宮室は焼けたままで、百官は荊棘を開き、垣根や壁の間に依りかかった。州郡は各々強兵を擁して輸送を委ねても至らず、群僚は飢え乏しく、尚書郎以下は自ら出て野の作物を採取した。ある物は垣根や壁の間に飢え死にし、あるいは兵士の殺す所となる。《後漢書孝献帝紀》 八月辛亥,鎮東将軍の曹操が司隸校尉・録尚書事を自ら領した。曹操は侍中の臺崇、尚書の馮碩を殺した。董承を衛将軍に封じ、輔国将軍の伏完ら十三人を列侯と為した,沮儁に弘農太守を追贈した。《後漢書孝献帝紀》天子は曹操に節鉞を仮し与え、錄尚書事と為す。《三国志魏書武帝紀操》曹操は又司隸校尉を領す。《三国志魏書武帝紀操に引く獻帝紀》 八月庚申、都を許に遷した。《後漢書孝献帝紀》洛陽は無残に破れて見る影もなく、董昭等は曹操に許に遷都するよう勧めた。《三国志魏書武帝紀操》 八月己巳、曹操の営に御幸した。《後漢書孝献帝紀》 九月、太尉楊彪、司空張喜が罷めた。《後漢書孝献帝紀》 九月、車駕は轘轅を出て東進した。曹操は大將軍となり、武平侯に封じられる。天子が西遷してより朝廷は日々乱れ、このとき宗廟社稷の制度が初めて立てられた。《三国志魏書武帝紀操》天子が東遷するにあたり、楊奉は途中遮断しようと欲したが及ばず。《三国志魏書武帝紀操》 冬十月、曹操は楊奉を征伐する。楊奉は南奔し袁術を頼る。遂にその梁の屯営を攻め破る。これにおいて袁紹をもって太尉と為し、袁紹は曹操の下風に立つを恥として受けず。曹操も固辭し、大將軍を袁紹に譲る。《三国志魏書武帝紀操》 冬十一月丙戌、曹操は自ら司空・行車騎将軍と為し、百官を総覧して聴政する。《後漢書孝献帝紀》天子は曹操を司空と為し、行車騎將軍と為す《三国志魏書武帝紀操》 是歲、棗祗、韓浩等の議を用い、始ねて屯田を興す。《三国志魏書武帝紀操》是歲、民を募って屯田を許下に興す。穀百萬斛を得る。この後州郡に田官を置くようになる。穀は積まれ、四方に征伐し運糧之勞を厭わずともよくなった。《三国志魏書武帝紀操に引く魏書》 是年、鄭玄は徐州から高密に還った。道すがら黃巾賊數萬人と遭遇したが玄を見て皆拝礼した。相約して賊はあえて縣境に入らなかった。《後漢書張曹鄭列傳鄭玄》 建安元年、驃騎將軍の張濟は關中から南陽に逃げ込み、穰城を攻めるが飛矢に当たって死んだ。荊州の官吏は皆祝賀を述べに劉表を訪れたが劉表は賀を辞退し人を遣わしてその衆を受け入れるよう知らせた。之を聞いて衆は皆服従した。《後漢書袁紹劉表列傳》張濟は關中から南陽に逃げた。濟は死んだ。從子の張繡が其部曲を領した。《三国志魏書武帝紀操》 この年、呂布が劉備を襲い、下邳を奪う。劉備は逃げて曹操の庇護を求め来る。程昱は曹操に說いて「劉備を見るに雄才有り、人心を得ています。終には人の下にいないでしょう。早く圖えておくべきです」曹操は曰わく「今は英雄を求める時だ。一人を殺して天下之心を失うべきではない」。《三国志魏書武帝紀操》 誕生者 死没者 ▲PAGE TOP 195年<< >>197年
https://w.atwiki.jp/ishigamism_wiki/pages/146.html
作者:吉川英治 初版:2000年X月X日 感想:転戦続きの劉備軍、そして董卓討伐の為に曹操が動く! 【1回目】 期間:2010年2月15日(月)~27日(土) 日数: 三国志 吉川英治 歴史